与え続けた人は、多くのプロセスを経ているので、一瞬で物事の本質が見えるというのはあるのかもしれない。
反対に、与えていない人は、プロセスを経ていないので、なぜ自分は与えられないのか、なぜ上手くいかないのか、なぜこの境遇なのか、なぜ自分は評価されないのかというような事ばかり考える。だから、承認を得ようと無理に動く。無茶をする。あいまいにする。誰かを悪者にする。それが更に周囲を疲弊させる。迷惑をかける。周囲を見渡すより先に、自分が認められることを優先させてしまうから。
与えられない人が本当にすべきことは、なぜ自分がそういう境遇になったのかの原因を追究して、今後そうならないために何をすべきかを考えることなんだろうと思うけど、如何せん、他責が強い人は、自分自身を見つめるということ自体を恐れるので、この作業がなかなか進まない。そうなると、周囲からそっと人がいなくなったり、誰も注意しなくなったり、相手にされなくなったりということが起こるんだろうと思いますね。
まあ、他責にすることは、早く自分の非を見なくて済むという効果…はあると思いますが、根本的な問題を先延ばし副作用も強いということでもあるかもしれないですね。言ってみれば、薬を飲めば痛みは軽くなったように感じるけれど、根治したわけではないみたいなところですかね。対症療法みたいなもので。だから、問題は蓄積し、温存されていく。対症療法をしながら、根治を目指すならそれもいいと思う。
反対に、与え続けた人は多くの地味なプロセスを淡々と積み重ねてきているので、なぜその問題が起こったのかや、どうしてそれをすると場が歪むのか、どうして人が離れるのかみたいなことを一瞬で把握することができるので、無茶をしない、相手の自由を奪わない、相手を尊重するみたいなことが自然にできるんじゃないかと思いますね。
自分の弱い部分を見るのは時にかなりきつい作業になるとは思うけれど、与えられない・何かが不足していると感じているなら、自分を見るという作業は欠かせないことなのかもしれないですね。
与えると与えられるという単純なものではなくて、与え続けると、自分にとって本当に価値のあるものが何かが見えてくるということかもしれないですね。